変拍子日記

不定期な日記

好きな服を着て仕事したほうがいいのではないか

違和感バリバリの頭ン中

目の前はワイシャツとスラックスであふれていた

ヤバイと知りつつ俺はただ会社へと向かっていた

 

今日も電車は人でいっぱいだ。

そん中に紛れ込む人々の死んだ目

服装は360度見渡しても

ワイシャツとスラックスの男男男

 

 

馴染もうとして同じ格好をしているのか。

 

もはや自分も含めなんでこの服を着ているのかわからないままなんとなく朝着替えて家を出ているのではないかと思うくらい。

 

 

地下鉄の中の異様さを感じた

 

どうしてワイシャツとパンツでみんな同じ格好せんといかんのだ

 

どうして服装までもがJIS規格のごとく統一されているのだ

 

戦闘服というがかえって士気を下げる服装ではないか

 

自分の好きな服を着ていたほうがまだましではないだろうか。

仕事をしている最中の気分というのは。

 

右に倣えが過ぎるのではないだろうか

 

オフィスカジュアルと画像検索すると女性の画像ばかりヒットする。

 

男性はこのように女性に合わせていくべきなのだ。

 

スーツとネクタイとか暑苦しいでしょ。見ている側も。

そりゃ着たい人は着ればいい。

振り幅を広げてもいいのではないか。

ジャージで過ごしたい。下駄を履きたい。

ジャージでいても違和感のない雰囲気づくりや空気があったほうが社会の精神的安定のためにいいのではないだろうか。

 

 

そういう人が訪問してきたときも、こういう服装もありなんだなという、許す心が必要なのだ。スーツ姿でも悪い人はたくさんいる。

 

何が原因なのか、スーツが当たり前で私服であるべきでないというような概念的、思想的な刷り込みが人々にいつの間にかされている気がしてならない。

 

 

影響されるところは影響されまくって、受け継いでいるものは根強く受け継がれている国、日本。

 

誰しもがスーツ姿で乱れのない社会のあり方というのが美しい国ということなのだろうか。

 

理性と欲望

自分との戦いに勝てる理性を持っているかどうか。

 

 

のどの渇きに耐えられなかった。

 

地下鉄の自動販売機からにじみ出る誘惑に勝てなかった。

 

ぼくは小銭入れが入ったにズボンの左ポケットに手を伸ばした。

 

い・ろ・は・すを手に入れた。

 

のどは潤った。

 

近頃街中自動販売機であふれている。

 

数はどんどん増えている気がする。

 

電気を消費する四角いものだ。

 

環境破壊、電力の無駄使いに加担しているような罪悪感を覚えた。

 

い・ろ・は・すを手にした直後だ。

 

やってしまった感というやつだ。

 

飲み終わったい・ろ・は・すはごみになる。

 

のどの潤いという一時的なの効用のために地球に傷をつけてしまう。もう少し理性が強ければ、欲望を抑えられたならば自動販売機に近づかなかっただろう。

 

 

難波駅で子供2人にねだられながら自動販売機で飲み物を購入する若いダンナがいた。

 

四ツ橋線側の改札手前だ。

 

ライフ行って買えばコストを抑えられるじゃねえかと思いながらぼくは通り過ぎた。

 

ぼく自身も小さいときはよく両親に我侭いって迷惑かけてきたなあと時々思う。

 

今も結構かけているかもしれない。

 

迷惑をかけるよりかはかけないほうがいいと思う。

 

人にも、地球にも。

 

超絶恵まれている

『新世代努力論』という本をここ数日通勤中読んでいる。

 

 

買った日は結構前で、久しぶりに読んでいる。

 

”努力すれば報われる”

そんな考え方をやめませんか?という本だ。

 

努力すれば報われるということは自分が努力しさえすれば思い通りになるという風にもとれるため、傲慢であるというのである。自分は努力してここまで登りつめているのだから、没落者が没落者であるのはその人自身が努力不足だからだというのをスパッと断つ本だ。

 

 

恵みの章だったか。

環境の良し悪しや運の良し悪しがその人の人生を決めてきたのだから、しょうがないというような内容だ。成功者は恵まれた環境、周囲の人間関係、出会った人なんかにたまたま恵まれている。今苦しい環境にいる人はたまたま生まれた環境や学校の先生や出会った大人の質が悪かった。だから運が悪かったと。しょうがないというようなことだ。

読んでいて自分は恵まれている環境、人生にいるのではないかと思わずにはいられない。成功者では決してないが。

 

もしかしたら今生きていないかもしれない。

車を運転中居眠りしそうになりかけたこともある。

でも生きている。

生かされているともいえる。

生かされているというのは仏教的で大学の影響もあるが生かされているようなフレーズの音楽を聴きすぎた影響もあるかもしれない。

周囲のおかげで生かされている。と、いつもではないがたまに思う。

 

 

そんな恵まれたわたしだ。

勤めている会社で一生を終えるというのは恵まれていない人に何もしてやれないという点で非常にもったいないのではないかと思った。この考え方も傲慢かもしれない。

 

このまま会社で人生を終えることは果たして自分の使命なのか?

 

自分ひとりの行動で世界が大きく変わることはないが、それでも得意先や仕入先にヘコヘコしているよりももっとやるべきことがあるんじゃないかと。それがなんなのか落とし込めていないが。

 

それにわたし自身労働で消耗している感もあるし、会社のほかの人も頑張っていることは間違いない。ただ、結果として数字が未達であって社長という肩書きの人からは結果がすべてだというような言葉が発せられた。

 

 

”結果がすべて”

これは正しいことこの上ない。正しいだけで、わたしは賛成しない。

社会全体で努力が報われにくくなっていると本に書いてあるように、わたしはしょうがないじゃないかといいたい。運が悪かったのだ。自分以外に要因はいくらでもあるんだと。社会にはもっとやさしくなってほしいものだ。

 

社長と呼ばれる人も喝を入れればみんな頑張るのだと考えているのかもしれないが、安易に頑張れといい続けていたら、

 

死ぬど。人が死ぬど。

退社するための動機を見つけよう

会社から早く脱出したい!なんで21時とか22時とかまで入社して5年くらい経過してもぼくは会社にいるのだろうか

そんなことを毎日思っていました。

 

貝木さんの言うとおり、今回の件からぼくが得るべき教訓は、ただ働きは割に合わない---だ。

 

いまさらサービス残業に対する考え方を自分の中で定義づけるのも遅すぎるかもしれません。まして自分の言葉でないし。何かを始めるのに遅すぎるということはない。そんな前向きの姿勢でいきましょう。

 

 

ある日AbemaTVを検索していました。

 

日常に変化が起きました。

 

物語シリーズが見れるではないですか!

 

化物語第1話から一挙放送!

 

なんてこった!パンナコッタ!

 

平日9時と21時に始まるとな。

 

これは早く帰らなければ!そう思わずにはいられませんでした。

 

そんなわけで早く退社する動機がまたひとつ生まれました。

 

物語シリーズを21時に自宅でスタンバイして見れるようにするために、会社から脱出することができるか---YESだ。

 

その放送時間帯以外にAbemaTVで見ようと思ったら月額プランに入会する必要がありますが、リアルタイムであれば無料で見られる・・・そんないいことがあっていいのでしょうか。無料で拝見してもいいのでしょうか。そんなことを1ミリくらいは思っています。

 

残業してまでしなければならないことは何ひとつありません。それはお客さんや仕入先や会社の人が自分に対して仕向けているのであって、ぼく自身の生み出したものではない。

 

その日のうちにしなければならないことがあるのならさっさと外回りから帰って社内でそれを片付けて物語シリーズ見るために退社しようぜー!

 

と自分に言い聞かせるのであります。

勝手に休みたい

”有給休暇を取得する際に会社の人に謝る必要のない社会を作れ”

headlines.yahoo.co.jp

なんて記事がYAHOO!ニュースにあった。

 

欧米に比べてまだまだ日本の労働環境は劣悪なのだろう。

 

明日(もしくはそれ以前に)休みますと申請すればOKというようなフランクでカジュアルでゆるふわな雰囲気は確かにぼくを雇用している会社に存在しない。

 

だれかがいなくても回るように、まわせるように普段から仕組みを、制度を整えておくべきというのが経営者の務めなのである。

 

だれかが、その人がいなくては仕事が回らない。まして複合機やプリンター一台が調子悪いだけでやってらんねえってなっている今の状況は最悪なのではないか。

 

こんなにもぼくのいる会社は脆いのかと絶望した。

 

プロは同じエフェクターを2台持っていますと、ACIDMANのライブDVDを見ていたら大木さんが言っていた。

 

ぼくらはまだまだそのくらいのこともできていないということだ。何かが壊れてもまだこれがあるとか、誰かがいなくてもこの人がいるみたいな環境にできていない。頼みの綱が細すぎて握ったら千切れてしまう。社会全体が既にそれくらいのタフさなのだと思う。

 

今の働く環境を早急に変えるか、ぼくのいる環境を変えるか、そのどちらかしかないのだろう。会社に垂れたその細い綱にいつのまにか依存してしまっている。

 

人は一人で勝手に助かるだけだというのなら、会社を休むというのもその人が勝手に休むだけだくらいのものでありたい。休むことを申請しにくい、周りに迷惑をかけてしまう。休んでいるあいだに何か起きたらどうしよう。なんて考えてもしょうがない。そんなことを考えてリフレッシュできなかったら、申請した意味がないではないか。

 

休んだときに何かあったら、それは運が悪かったとしようではないか。

 

自分が休んだせいだと罪悪感を持つ必要はまったくない。

 

いっそストライキくらいのものになればいい。みんなで休めば怖くないだろう。それなりの影響力を持つだろう。それくらい休みに対してもっと向き合うべきなのである。働きすぎといわれているくらいなのだから。

 

寝ていたい

ACIDMANの埼玉スーパーアリーナでのフェスに参加できそうだ。

ありがたい。千年先といわずに、もうすぐきっと会える。

 

参加するにあたって、年次有給休暇を発動できるかどうか。

関東遠征を満喫するためのターニングポイントだ。

発動できなければ日帰りだ。それは悲しい。

 

 

 

時間がほしいと思うことが増えた。

会社に雇用されて働くというのは一度はまればなかなか抜け出せない。

沼に沈むかのように行動が制限されていく。働いて無性に金を使ってバクバク食べたり消費したりすることでストレス発散する人もいるだろう。しかしそれでは”金を使った、金が要る、金を稼ぐ”という堂々巡りから抜け出せない。このループワールドから抜け出すことは、資本主義に振り回されない生き方としてもっと広がらないだろうか。抜け出せないから同じ会社に居続けてしまうのではなかろうか。

 

会社側は労働者が抜け出さないようにわざと社内ルールとかで縛りをかけているとさえ勘ぐってしまう。

 

休日は寝ていたい。ましてこんな暑い時期だから外に出るリスクというのは割り増しであろう。インドア派は家で何もしなくても不満ではない。横になることで欲求が満たされるのだ。

そればお金を無駄遣いせずにすむということだ。

消費しろしろと煽る広告に対する抗議の戦術でもある。目を閉じて寝ることで、余計な情報をシャットアウトできる。

 

 

寝て体力回復しよう。夏は気づかぬうちにHPが削り取られている。

 

お疲れさまは

お仕事お疲れ様です。

 

お 疲 れ 様 で す 。

 

この言葉を聴く、見るたびに疲れが増さないだろうか。

 

支店の人とかに連絡を取るとき

誰かが退社するとき

 

サークルでもすでに使っていた。バイトでも使っていた。

 

疲れ に対して お を付けたりですます調で表現して、そこまで偉いのか疲れというのは。

 

 

さようならという言葉が減って、お疲れ様ですが増えている気がする。

 

さようならって最近いつ言ったっけ。

まあこの言葉のポジションにはバイバイやまたねとかカジュアルな表現が代わりにある。

 

さようならには少し冷たさが宿っている気がする。確かに別れの言葉ではあるが次あるかわからないような、ラスト感。

 

昔のブログにはお疲れ様でしたありがとうございましたという締め方だったが、もう辞めておこう。疲れていたのだろう。