変拍子日記

不定期な日記

希少性を高めていく

藤原和博さんの”必ず食える1%の人になる方法”を読んでいる。

 

 

力、技、つながり、好きの4通りから、突き詰めていく。

100人に1人の人になる。

別の分野でまた100人に1人になる。

そうして掛け合わせていくことで希少性が高まる。

このことが飯を食っていく上で重要な戦略だ。

 

100人に1人になるステップとして1万時間を注げと書かれている。

 

メダリストやプロの人たちは1万時間注ぐことができる環境が整っている。

 

環境が大事なのだ。

 

でも環境のせいにしてはいけないとも思う。

 

うまくいかなかったとしても100%自分のせいではない。

50:50とかだ。自分以外の要因(環境など)がある。

運にも左右されるだろう。

だから自分はなんてダメなんだ・・・。と落ち込んではいけない。

 

個人的には好きのパートが印象深い。

固定費の削減として実家住まいは全然問題ない。

結婚相手としてつながりパートの公務員の狙え、とか。

ただ、困窮していようがどんな状況でも徹底して好きなことを追及できる覚悟があるか。

 

この覚悟がぼくにはあるか。

 

どちらかというと公務員思考なのではないだろうか。

 

ほどほどに仕事をして、趣味としてドラムや音楽に携わっている現在。

今の経済状況を崩してまで趣味を極める時間を持ちたいと思うだろうか。

今の環境を壊すことができないチキン野郎であるとゲンナリしている。

結局じぶんは変われない人間なのかと。自分で自分に失望する。

 

変われないのは勇気がないからではない。

ここで以前読んだ西野さんの”革命のファンファーレ”。

 

勇気がないから行動できないのでない。情報がないからだ。

 

そんな言葉が書かれていた。

 

今は少しでもインプットを増やしていく。

通勤電車での読書はその助けとなってくれている。

 

パチンコをせず、電車内でスマホゲームに没頭せず、週に1冊以上の本を読む。

 

最初のこのステップはクリアしている。

希少性を高めていこう。

 

 

 

 

 

ググっていこう

準備って大切だなと思った。

PDCAサイクルというのはあまり考えたくないのだけれど、

DするためにPが必要であるというのも否めない。

 

行動するのに勇気はいらない、情報があるかないか、だ。―

今読んでいる本に書かれてある。

 

 

実際知らないことは罪までいかないとしても、

 

知らないことが原因で割を食うという場面はたくさんある。

 

なぜ知っておかなかった・・・俺っ!という後悔につながる。

 

知っておくというのは準備の作業に分類される。

 

 

 

知るためには検索すればいいわけだが、

検索するための情報をこれまた知っておかねばならない。

 

検索できるかどうかというのが第一の分岐点となる。

 

ググって、ググって、ググりまくる。

その先にたどり着く場所がある。

突き止めるポイントが見つかる。

そこを目指してアクションを起こしていく。

 

まずはそこから始めてみる。

知識の増幅は基本プラスに働くから。

知らなきゃ良かった・・・!なんてこともたまにはある。

 

 

必要以上に追い求めるべきではない

部品メーカーの相次ぐ欠品に苦しんでいる。

 

 

大企業は強欲すぎていたのだ。

必要以上の売り上げ、利益の追求をしていたと思う。

だからキャパ以上の受注を引き受けてしまう。

そしてパンクして大幅な納期遅延が発生・・・。

 

こうした大企業の身勝手な行動で、喜んでいるのはピラミッドのてっぺんくらいだ。

底辺の中小企業郡は恩恵を受けることは一切ない。

 

大手メーカーの商品を各社拡販したところで、わたし自身の給与に反映されることはない。

大企業の駒として、小さな商社は動いているにすぎないのか。

おこぼれで飯を食っているような気分になる。

一生懸命売ったところで、川上の大企業が神戸製鋼のように

不祥事を起こされてはたまったものではない。

 

カメラの前で偉い人が頭下げて責任はうやむやになるのが最近の流れだ。

東電東芝は今ものうのうと生きている。淘汰されることは政府がブロックしている。

 

政府と大企業の癒着が、経済をゆがませている。

だからファーウェイの初任給40万といったように、

外側からこの国をしばいてもらううしかないのではないだろうか。

 

経済成長しなければならないという刷り込みを、

右肩上がりの前年比アップでなければならないという幻想を、

 

断ち切るべきなのだ。

 

この国が取り戻さなければならないものは、稼ぐ力ではなく幸せになる力だ。

 

哀れな人

公園の掃除は会社のルールで交代ですることになっている。

 

今日は禿げたおっさんがいた。

 

遠くでおっさんが何か投げつけている様子だった。

 

立ち去った後、ぼくはおっさんがいたところに近寄った。

 

そこにはおにぎりが捨てられていた。

 

2、3個捨てられていた。

 

 

 

まず、彼はなんてことをするのだろうと、憤りながらもちりとりで回収した。

 

それは怒りだったが、次第に哀れみを覚えた。

 

おにぎりがかわいそうだと。

 

もっとかわいそうなのは、おっさんなのだと。

 

ものに当たるというのは愚かで、そんなことでしか

イライラを発散することができないのだと。

また、そういうことしか学べない環境で育ってきたのだと。

いい歳して。

 

運が悪い。

 

育ってきた環境が違うからというが、

公園のそうじを自分がするわけでもないのに

ポイ捨てする判断力。してもよいのだというエゴ。

(たばこのポイ捨てもやめましょうね納税するのはいいけど)

 

そんなおっさんもどこかの組織で仕事をしているとすれば、

彼の下で動く部下たちもいるのだろう。

彼らもかわいそうだと思った。

 

彼の行為を見れば、自然と器が知れる。

 

ああいうおっさんにはならないでいようと。

 

ひとつ学びを得られた。

 

お土産のお菓子がしんどい

キングコングの西野さんが差し入れは要らないという記事で

賑わせたのは昔のことではない。

lineblog.me

 

 

みなさんも会社にいれば仲の良い悪いはともかく他人から

差し入れやお土産のようなものが回ってくることはありませんか。

 

食べ物なら胃袋に消えていくからかさばらない。

こういう理由で土産は食べ物というのが無難という感覚があります。

 

 

他人が田舎に帰省したときのものや

○○に行ってきたということで食べ物が配られます。

 

ぼくも実際遠方へ行ったときに会社の人に渡していたことがありました。一度だけ。

しかし年をとると甘いものが好まれないなど、

万人に無難なものというものをチョイスすることは簡単ではありません。

 

ぼくはここ最近は間食に興味を示さなくなってしまいました。

 

なのでお菓子に手を伸ばすことに億劫になっています。

 

申し訳ありませんがいただいたお土産や差し入れを

食べる気があるかないかと言われればないのかもしれません。

 

要らないと突っぱねる勇気はありませんが、

なるべく身の回りから遠ざけたいと思うようになりました。

 

お土産や差し入れはやめておこうと。

○○や行ってきたという報告をすることがなければ

「おみやげは!?!?!?」と周りに言われることもない。

 

ぼくは他人にお土産を買うのは控えておこうと思います。

買いたい人はそのまま買うスタイルを貫いてください。

 

普段お世話になっている仕入れ先さんや得意先さんに伺う際の

菓子折りという風習。これもなくしたほうがいい。

 

ぼくが生まれる前にできている風習。

 

謎だ。

 

ミスしたときやお礼のときに持っていくお菓子を入れる箱が重要らしい。

箱要らなくね?と思いません?

中身のお菓子はこのときにはおまけ扱いときたもんだ。

 

 

お菓子を食べたいときは自分で買います。

自分で選びたいものを。そのとき食べたいときを食べたほうが

効用も高いでしょう。

 

半ば強制的に受け取らざるを得ない差し入れ、お菓子は

渡す人にヒアリングした上でチョイスされているだろうか?

なんとなく人気そうなお菓子だからという理由で選んでいるでしょ(偏見)。

 

 

被災地に送られる千羽鶴なんかも場所をとるし処分に困るし

管理に困るし、かえって勇気付けるどころか迷惑をかけている。

苦しめている。

 

身勝手な善意といいますか。

エゴが混ざると怖いですね。

本当に相手のことを思っているのか。

要望を引き出してからそれを送っても手遅れにはならない。

 

きちんと段階を踏めば相手が喜ぶことをすることはできるはずだ。

 

独善的サプライズは悪い意味で相手を驚かせているのではなかろうか。

 

 

好きな服を着て仕事したほうがいいのではないか

違和感バリバリの頭ン中

目の前はワイシャツとスラックスであふれていた

ヤバイと知りつつ俺はただ会社へと向かっていた

 

今日も電車は人でいっぱいだ。

そん中に紛れ込む人々の死んだ目

服装は360度見渡しても

ワイシャツとスラックスの男男男

 

 

馴染もうとして同じ格好をしているのか。

 

もはや自分も含めなんでこの服を着ているのかわからないままなんとなく朝着替えて家を出ているのではないかと思うくらい。

 

 

地下鉄の中の異様さを感じた

 

どうしてワイシャツとパンツでみんな同じ格好せんといかんのだ

 

どうして服装までもがJIS規格のごとく統一されているのだ

 

戦闘服というがかえって士気を下げる服装ではないか

 

自分の好きな服を着ていたほうがまだましではないだろうか。

仕事をしている最中の気分というのは。

 

右に倣えが過ぎるのではないだろうか

 

オフィスカジュアルと画像検索すると女性の画像ばかりヒットする。

 

男性はこのように女性に合わせていくべきなのだ。

 

スーツとネクタイとか暑苦しいでしょ。見ている側も。

そりゃ着たい人は着ればいい。

振り幅を広げてもいいのではないか。

ジャージで過ごしたい。下駄を履きたい。

ジャージでいても違和感のない雰囲気づくりや空気があったほうが社会の精神的安定のためにいいのではないだろうか。

 

 

そういう人が訪問してきたときも、こういう服装もありなんだなという、許す心が必要なのだ。スーツ姿でも悪い人はたくさんいる。

 

何が原因なのか、スーツが当たり前で私服であるべきでないというような概念的、思想的な刷り込みが人々にいつの間にかされている気がしてならない。

 

 

影響されるところは影響されまくって、受け継いでいるものは根強く受け継がれている国、日本。

 

誰しもがスーツ姿で乱れのない社会のあり方というのが美しい国ということなのだろうか。

 

理性と欲望

自分との戦いに勝てる理性を持っているかどうか。

 

 

のどの渇きに耐えられなかった。

 

地下鉄の自動販売機からにじみ出る誘惑に勝てなかった。

 

ぼくは小銭入れが入ったにズボンの左ポケットに手を伸ばした。

 

い・ろ・は・すを手に入れた。

 

のどは潤った。

 

近頃街中自動販売機であふれている。

 

数はどんどん増えている気がする。

 

電気を消費する四角いものだ。

 

環境破壊、電力の無駄使いに加担しているような罪悪感を覚えた。

 

い・ろ・は・すを手にした直後だ。

 

やってしまった感というやつだ。

 

飲み終わったい・ろ・は・すはごみになる。

 

のどの潤いという一時的なの効用のために地球に傷をつけてしまう。もう少し理性が強ければ、欲望を抑えられたならば自動販売機に近づかなかっただろう。

 

 

難波駅で子供2人にねだられながら自動販売機で飲み物を購入する若いダンナがいた。

 

四ツ橋線側の改札手前だ。

 

ライフ行って買えばコストを抑えられるじゃねえかと思いながらぼくは通り過ぎた。

 

ぼく自身も小さいときはよく両親に我侭いって迷惑かけてきたなあと時々思う。

 

今も結構かけているかもしれない。

 

迷惑をかけるよりかはかけないほうがいいと思う。

 

人にも、地球にも。