変拍子日記

不定期な日記

カレンダーレジスタンス

この時期になるとメーカー、金融、商社など業界問わず

世にあふれ出すものがある。

 

 

カレンダーだ。

 

火憐だぜー

 

カレンダーを何とはなしに今まで配ってきた。

仕入先のメーカーさんのもの、自分がいる会社のもの。

お客さんに聞かれてもいないのにたくさん持っていって渡して帰った。

 

だが今年は違う。

 

このカレンダーは何でできているのか?

 

実物を眺めていたがどこにも書かれていない。

 

ひょっとしたらこの自分が頼んでもいないもののために

樹木が犠牲になっているとしたら?

ひどく恐ろしくなった。

こんなものを作るために環境破壊に加担しているわが社は、

果たして社会の変革に対応していると胸を張って言えるのか?

 

こいつらはいずれゴミになる。

このカレンダーが生産された時点ですでにとき遅しではあるが。

知らぬうちに、何十もの数が会社にスッと届く。

配り回れという上からの指示がくる。

 

果たしてこのまま思考せずに配っていいのか?

 

ましてほしいかどうかも聞いていないのに、

渡してお客さんのところを去るというのは

とても自己中心的な行為ではないだろうか?

 

求められていないことをするというのはおこがましいことではないだろうか?

 

 

ぼくの中のカレンダーを配ろうという気はすでに失せていた。

 

聞いてから欲しい数だけ渡すことしよう。

 

ひとり●●配れ!という上からの指示とはなんだったのか?

上の人さえも思考停止に陥っていないだろうか?

 

ゴミを増やさないために、

カレンダーを配る文化というのをやめませんか。

 

テレビが終わっていると思った月曜日

帰宅したら流れていたテレビが

 

世界!ニッポン行きたい応援団

世界ナゼそこに?日本人

 

のコンボだった。

表向き

”日本はすばらしい国ですよ!”

”外国の人を魅了するものが日本にはたくさんありますよ!”

と鼓舞させるような内容である。誰を鼓舞しているのかはしらん。

 

餃子が好きな女性が云々~で番組終わりかけであった。

 

その次の番組である。

 

開始まもなくこの番組終わっているなと思わずにはいられない。

 

”日本人ですか?”と聞いていたり

ライバル店の経営者が中国人であることを強調しているのが丸わかりだ。

 

人種を超えて手を取り合うという気持ちが製作サイドにないのだ。

 

ライバル店のことをディスって、主人公の女性の店をすばらしいものだとしている。

確かにその女性の食事はおいしそうではあった。

 

ただ、間違った日本料理と主人公の本物の日本料理という2軸も違和感を覚える。

立地がいいライバル店で、客も回せているならばそれはそれで本物だ。

 

仮にライバル店の料理が偽者だったとしよう。

それでも本物になろうという意志があって、本物よりも本物なのかもしれない。

メニューもめちゃくちゃではあった。

日本をディスるためにわざとそうしているのかもしれない。でも日本に対するリスペクトもあるはずだ。

お客さんにおいしいものを提供することができており、

また繁盛しているということは需要があるということだ。

 

ビジュアルが気持ち悪くてもおいしい料理は世の中いくらでもあるはずだ。

そういうところもディスっているのではないか。番組製作者にはおいしい料理は見た目もすばらしいものであるべきだという考え方があるのだ。それ自体を否定はせん。

 

路地裏の人通りが少ないところにもかかわらずそこと比べるからお客さんが少ないのは当たり前だ。収容できるキャパも違うだろう。

 

この相手を蹴落として媚びるほうに媚びるスタイルはどうなのか。

お客さんである外国人のインタビューもテロップが真実なのか疑わしい。

翻訳する声も入って何が語られているのか。

真実は闇に投げ捨てられているひどい有様だ。

 

 

 

”これ見てんねんけど”ってチャンネル譲らん親にもがっかりした。

 

何かと何かを比べて見る人を優越感に浸らせるような内容では手の抜かれたズボラな番組だと思う。

 

終わっている。というか終わりすぎている。

口は災いの元をひしひしと感じた

友人の家に泊めてもらった。

 

こちらが観光目的で散策するので久しぶりに会うということもあり、食事に誘った。

 

誘っておいて何だが、

旅行先の土地勘はまったくなかったので連れてくださいということになった。

 

 

ご飯もお酒も、おいしくいただいた。

マッコリを初めて飲んだが、やさしい味がした。

 

3件回って、夜も更けていく。

 

結局泊めてもらえることになった。

 

ただ、わたしは葛藤していた。

泊めてもらえるのに特に何もせずにいていいのか?

泊めてもらえる分際で友人に何も礼をしないのか?

何かできることを提供したほうがいいのではないか?

 

そんなことを考えていた。

 

友人宅で再び飲み会を始めた。

 

ビールが進む。つまみも進む。

 

結局飲んでスヤスヤ寝てしまった。

 

翌朝は早々に出発させてもらった。

 

シャワー浴びるか?と聞かれたが、丁重にお断りした。

 

向こうは予定が入っているし、これ以上居ては障害になりうる。

ささっとさよならを告げ、年末に再開しようと言葉を交わした。

 

何か自分ができることを提供するべきではなかったか?

ここが引っかかっていた。

今はしなくてもよかったのではないかと納得しようとしている。

口は災いの元という言葉が頭をよぎったのだ。

 

できることをもし言っていたならば、

トイレ掃除や風呂掃除なんかをしようと思っていた。

 

ただ、それは相手を傷つける可能性を含んでいたのだ。

遠まわしにあなたのトイレ、風呂場は汚いということだ。

 

言っていたら泊めてもらっているのに傷つけてしまっていたかもしれない。

しない後悔する後悔というがここでは口に出さなくて正解だったと思う。

 

感謝の言葉を何度も伝えたほうがよい。

 

今回の件からわたしが得た教訓は

あまり出すぎたマネをするべきではないということだ。

希少性を高めていく

藤原和博さんの”必ず食える1%の人になる方法”を読んでいる。

 

 

力、技、つながり、好きの4通りから、突き詰めていく。

100人に1人の人になる。

別の分野でまた100人に1人になる。

そうして掛け合わせていくことで希少性が高まる。

このことが飯を食っていく上で重要な戦略だ。

 

100人に1人になるステップとして1万時間を注げと書かれている。

 

メダリストやプロの人たちは1万時間注ぐことができる環境が整っている。

 

環境が大事なのだ。

 

でも環境のせいにしてはいけないとも思う。

 

うまくいかなかったとしても100%自分のせいではない。

50:50とかだ。自分以外の要因(環境など)がある。

運にも左右されるだろう。

だから自分はなんてダメなんだ・・・。と落ち込んではいけない。

 

個人的には好きのパートが印象深い。

固定費の削減として実家住まいは全然問題ない。

結婚相手としてつながりパートの公務員の狙え、とか。

ただ、困窮していようがどんな状況でも徹底して好きなことを追及できる覚悟があるか。

 

この覚悟がぼくにはあるか。

 

どちらかというと公務員思考なのではないだろうか。

 

ほどほどに仕事をして、趣味としてドラムや音楽に携わっている現在。

今の経済状況を崩してまで趣味を極める時間を持ちたいと思うだろうか。

今の環境を壊すことができないチキン野郎であるとゲンナリしている。

結局じぶんは変われない人間なのかと。自分で自分に失望する。

 

変われないのは勇気がないからではない。

ここで以前読んだ西野さんの”革命のファンファーレ”。

 

勇気がないから行動できないのでない。情報がないからだ。

 

そんな言葉が書かれていた。

 

今は少しでもインプットを増やしていく。

通勤電車での読書はその助けとなってくれている。

 

パチンコをせず、電車内でスマホゲームに没頭せず、週に1冊以上の本を読む。

 

最初のこのステップはクリアしている。

希少性を高めていこう。

 

 

 

 

 

ググっていこう

準備って大切だなと思った。

PDCAサイクルというのはあまり考えたくないのだけれど、

DするためにPが必要であるというのも否めない。

 

行動するのに勇気はいらない、情報があるかないか、だ。―

今読んでいる本に書かれてある。

 

 

実際知らないことは罪までいかないとしても、

 

知らないことが原因で割を食うという場面はたくさんある。

 

なぜ知っておかなかった・・・俺っ!という後悔につながる。

 

知っておくというのは準備の作業に分類される。

 

 

 

知るためには検索すればいいわけだが、

検索するための情報をこれまた知っておかねばならない。

 

検索できるかどうかというのが第一の分岐点となる。

 

ググって、ググって、ググりまくる。

その先にたどり着く場所がある。

突き止めるポイントが見つかる。

そこを目指してアクションを起こしていく。

 

まずはそこから始めてみる。

知識の増幅は基本プラスに働くから。

知らなきゃ良かった・・・!なんてこともたまにはある。

 

 

必要以上に追い求めるべきではない

部品メーカーの相次ぐ欠品に苦しんでいる。

 

 

大企業は強欲すぎていたのだ。

必要以上の売り上げ、利益の追求をしていたと思う。

だからキャパ以上の受注を引き受けてしまう。

そしてパンクして大幅な納期遅延が発生・・・。

 

こうした大企業の身勝手な行動で、喜んでいるのはピラミッドのてっぺんくらいだ。

底辺の中小企業郡は恩恵を受けることは一切ない。

 

大手メーカーの商品を各社拡販したところで、わたし自身の給与に反映されることはない。

大企業の駒として、小さな商社は動いているにすぎないのか。

おこぼれで飯を食っているような気分になる。

一生懸命売ったところで、川上の大企業が神戸製鋼のように

不祥事を起こされてはたまったものではない。

 

カメラの前で偉い人が頭下げて責任はうやむやになるのが最近の流れだ。

東電東芝は今ものうのうと生きている。淘汰されることは政府がブロックしている。

 

政府と大企業の癒着が、経済をゆがませている。

だからファーウェイの初任給40万といったように、

外側からこの国をしばいてもらううしかないのではないだろうか。

 

経済成長しなければならないという刷り込みを、

右肩上がりの前年比アップでなければならないという幻想を、

 

断ち切るべきなのだ。

 

この国が取り戻さなければならないものは、稼ぐ力ではなく幸せになる力だ。

 

哀れな人

公園の掃除は会社のルールで交代ですることになっている。

 

今日は禿げたおっさんがいた。

 

遠くでおっさんが何か投げつけている様子だった。

 

立ち去った後、ぼくはおっさんがいたところに近寄った。

 

そこにはおにぎりが捨てられていた。

 

2、3個捨てられていた。

 

 

 

まず、彼はなんてことをするのだろうと、憤りながらもちりとりで回収した。

 

それは怒りだったが、次第に哀れみを覚えた。

 

おにぎりがかわいそうだと。

 

もっとかわいそうなのは、おっさんなのだと。

 

ものに当たるというのは愚かで、そんなことでしか

イライラを発散することができないのだと。

また、そういうことしか学べない環境で育ってきたのだと。

いい歳して。

 

運が悪い。

 

育ってきた環境が違うからというが、

公園のそうじを自分がするわけでもないのに

ポイ捨てする判断力。してもよいのだというエゴ。

(たばこのポイ捨てもやめましょうね納税するのはいいけど)

 

そんなおっさんもどこかの組織で仕事をしているとすれば、

彼の下で動く部下たちもいるのだろう。

彼らもかわいそうだと思った。

 

彼の行為を見れば、自然と器が知れる。

 

ああいうおっさんにはならないでいようと。

 

ひとつ学びを得られた。