変拍子日記

不定期な日記

混沌と

1年の半分が過ぎていますねー。

 

今年は素数なだけに混沌とそして着実に国内が闇に包み込まれていくようであります。

 

政治がメディアに、メディアが政治に忖度しているようで。

 

知っておくべき重大ごとほど包み隠され、

 

どうでもいいようなことばかりがテレビに映っている。

 

そんな気がしませんか?

 

この傾向は昔からどんどん強まっている。

 

 

そのせいかテレビから離れることも多くなりました。

 

皆様いかがお過ごしでしょうか。

 

パソコンかスマホの画面を見る時間が1日のどのくらいを占めているでしょうか。

 

デスクワークをする毎日。

視力はどんどん悪くなる一方であります。

 

love があるからpeaceではなくなるというのなら、

 

smile&peaceというのはどうでしょう。

 

みんなが幸せになってほしいし、神社に行けば世界平和を祈るようになりました。

 

誰かが幸せになってほしいといいことを願う気持ちを持っているのは、妬みや

恨みごとを思うよりもずっと自分自身も幸せなはずです。

 

 

”生まれた時点で死ぬことが確定している”というのはACIDMANのライブのMCで聞いたことばですが、死期が近いと常に思えばなんだか相手を許そうという気になってきています。

 

相手のことを恨んでも仕方がない。相手を憎むということは、自分はその人から好かれるということを絶ってしまうと思うのです。

 

自分が死んで喜ぶような人は少ない越したことはないでしょう。

 

明日死ぬかもよという本もあるくらいですし。

 

自分だけは長生きできるという都合のいい思い込みからも解放したほうが、精神的に楽になると思うのは自分だけでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

だろうか

得意先や仕入れ先で辞めていく人が最近多い。

 

事情はひとそれぞれあるだろう。どうして辞めるのかまでは問うことにしていない。

 

 

ようやく働き方改革が骨身に染み出してきたといったところか。

 

 

どうして働かせ方改革ではなく、働き方改革という言葉になったのかは、自分の身は自分で守れよというメッセージが含まれているからだと最近気づいた。

 

 

経営者視点ではなく、被雇用者視点。

 

 

みんなそれぞれ手探りで道なき道を突き進んでいく。

 

人生、政治、経済。すべてが手探りになっているのではないだろうか。

 

先のことはわからない。

 

 

短期的な収益に目線が向いているうちは、世の中よくならない。

 

節電してますよー!と自販機が謳っているが、そもそも設置しなければ環境のこと考えてるなーってなると思う。

 

自販機が当たり前のように町中に広がって、あたかもずっとここにいるじゃないですかーといわんばかり。感覚が鈍っている。

 

自販機がなくなったらどうなるだろう。

 

エライ人にみんな媚びへつらう。

 

エライ人が自販機を置けと指示しているのだろうか。それとも設置を許可する人がそそのかされているのだろうか。

 

人が足りない。

 

コンビニはどこもスタッフ募集ののぼりが立てられている。就活も売り手市場との声が上がっている。

人がいなくてもまわせる店舗になればハッピーになるだろうか。

 

ルフレジ導入。ロボットによるレジ業務。

 

ロボットが仕事をやってくれる。そういう考え方になるだろうか。仕事を奪われると思う人が多いのだろうか。

 

人間だから、未知のものや、慣れきった環境を変えられるというのは少なからず抵抗がある。

 

環境を変えた先に、目指していたものは待っているだろうか。

 

 

 

 

 

先に待つ絶望を知りつつ今を楽しむ

飲み会が無事に終わった。

 

楽しかった。

 

初めは加害妄想のせいでみんな乗り気だろうかとか心配しまくった。けどみんな笑顔でいてくれて企画してよかったと思えた。

 

すきっ腹に酒はいかんと思い昼飯を食べたのが17時ごろでやっぱりこのことがまずかったと思う。お料理が思ったより進まない。

 

お酒はビールがあれば十分だ。

ほかの種類のお酒が飲めないわけじゃないけど、事足りるというか、拘りがない。

 

結婚する人

これからしような人

予定がない人

 

お金、仕事、恋愛。人が集まればこの3つの話題がされないことはない。いろんなものがまとわりつく年頃だ。

ボーナスはみんなもらっているようだ。何ヶ月分とかは差し置いて。

ぼくの勤め先はボーナス支給せざる会社である。最近はもらうために必死こいて働くというようなガッツはなくなっている。ない状況下においてはさっさと定時に帰ることがもっとも合理的であると考える。

 

何にせよ、生きている以上前を向いて突き進むしかない。進む先がどのようなものになるかを選べればよいが。

 

世の中には2種類の人間しかいない。

変われる者と変われぬ者だ。

 

ぼくは今のところ後者であろう。

 

わかっていても、どうしようもない。いや、どうもしようとしない。

ただ知るだけだ。それを阻止する力があるわけではない。

 

この先に待つ出来事をただ直面することしかできないのか?

強い意志がなければ運命は変えられぬ。

 

いやーファイアーエムブレムって名言の宝庫ですな。

比べると疲れる。比べなくとも疲れる世界だから。

計るのはいいが勝手に悦に浸ったり落ち込んでしまうのはよくない

 

年収では人は計れない。

結婚しているかしていないかでも計れない。

でもカネがあるからアイが生まれる。そういう時代になっている。

婚活に出向いている人なんかそうじゃないだろうか。

この男性は金を稼ぐ能力があるか?と、鋭いまなざしが女性から発せられているのではないだろうか。婚活したことないけど。

 

みんな他の人がどうなんだ?って知りたがっている。心のどこかでそういう思いが潜んでいる。自分と相手を比べる。比べて安心する。または落ち込む。

 

他人のことより、自分の心配をしたらどうだ?と。

 

子どもも年収があがればあがるほどたくさんひとりの女性から生まれるというわけではない。カネがいくらあってもそれぞれの家庭でどういう家族にしていくかというプランが立てられ、家族が増えていく。

 

自給を1,500円にあげろとデモを起こすなら、年収500万を等しく得られる世界にしようという運動のほうがいいと思うがどうだろう。

 

Rootpotさんの著書『失敗すれば即終了 日本の若者がとるべき生存戦略』によれば 年収500万円あれば、今の時代子どもをつくろうかという判断を下しやすいようだ。499万以下では子どもを作ろうとする家庭は少なくなる。それは子どもにどれだけ投資したいかというところに影響を与えるからだ。

 

だから他の家庭がたくさん子どもをつくるから、わたしは関係ないというような考えかたをするのは少子化をとめることにつながらない。

 

ところが年収が500万より多くても子どもをもっと作ろうとする流れにはならない。

ひとりの子どもにリソースを注ぎ込みたいのだろう。二人以上になると十分に投資できないということになる。

 

結婚したくない世界、したい世界、どちらに進んでいくか

 

 

結婚しなくても幸せになれる時代にわたしはあなたと結婚したいのです

 

ゼクシィのCMのコピーが刺さるとネットで話題になっている。

確かに今は幸せな人も多いかもしれない。ぼくらが年寄りになる40年後、50年後はどうだろうか。どんな未来であるかは想像を超えているだろうが、少なくとも人がいないのは間違いない。

 

ロボットに置き換えられた仕事。置き換えたことによって生まれる時間。楽しめる余暇。そんな楽しい面もあるだろう。

 

でも人の助けが必要な爺さん婆さんは、人の手から離れられるだろうか?すべてロボットで身の回りを補えるだろうか。介護する人、下の世話をする人。人。人。人。将来的には1人のご老人を支えるのが1.2人になるという。

 

移民を受け入れればいいというが、そんな役回りされるならこっちから願い下げだとそっぽを向かれるのではないだろうか。まして同じ人間なのに扱いが支配関係のようだ。

 

子どもが死ななくなったから、子どもが減って老人ばかりの国になった。

でもひとりの子どもにたくさんリソースを注げられるから、賢い国になっていく。知らんけど。

 

各家庭がひとりでも子どもを持つことができて安心して暮らせる社会になればいい。その安心させるための方法の一つがみんな500万円の所得というわけ。

 

もしくは、500万円で得られるもの自体の価値が下がればいい。400万円で十分な所得といえる世界。ものの価値が下がって手に入りやすくなる世界。

 

幸せになりたい。だれかと比べる必要のないくらい。

 

飲み会を開く前にすでに消耗している幹事

ゴールデンウィークに開催する飲み会の幹事をしているわけだが・・・。

 

ある恐怖心がずっと纏わりついている。

 

飲み会なんて誰も楽しみにしていないんじゃないか。という思いだ。

加害妄想が過ぎてると自分自身でも思うのだが、実際他人の時間をそこに割いてもらうというのに変わりはない。貴重なお時間をありがとうございます。といった感じになる。

 

 

仕事の飲み会なら言うまでもなく行く気にならない。

自分の時間を売って得られる対価は大したものじゃないからだ。

カラオケなどの2次会にはもう嫌っ!となる。僕の場合は。

はよ帰らしてくれ、と。

 

 

ところが友人同士の場合でもそうなんじゃないかって。

 

この時期に遠方でお勤めの人もたくさん戻ってくる。

戻るだけでそこそこ交通費がかかっているのに、そこに追い討ちをかけるような飲み代。人によっては高いと感じるかもしれない。さらにお店の対応やら、評判が良くないところを選んでしまうと幹事どういうことだオイとこちらに怒りが向けられるかもしれない。

 

 

懇親会や親睦会はランチの時間でいいじゃないかというまとめもネット上で出てきている。

夜の飲み会はそもそもが高くつく。昼間からわいわい騒ぐのが許されるといいが、そういう社会じゃない。夜でもうるさいのは迷惑なのだが。

 

久しぶりに会える友人たち。

一緒に過ごせる時間というのはプライスレスだと思う。

明日死ぬかもしれないこの世界で。次にいつ会えるかわからない。会えるうちに会っておこう。あって話をしよう。何気ないものでいい。

 

 

 

 

開催する以上は参加してよかったとみんなに思ってもらいたい。

 

そのための策は特に練っていないが。

 

許し許される社会はきっと今より生きやすい

肯定ペンギンのあかちゃんをツイッターで見かけることが多くなった。

 

かわいい。

 

月曜日の今日なんて、”職場に着いただけで満点!”なんて言ってくれる。

 

小さなことから自分を誉めよう。

 

けなすことで得られることは多くない。

 

次はこうしようああしようって決めたら、そこでシャットアウトしよう。

 

自己評価の低さはところどころに現れる。

 

どうせ自分なんて・・・

自分だからできっこない。

自分はだめだ。

どうも比較対象がある環境にならされてしまっている。

 

営業のノルマとか。グラフで営業ごとの数字が可視化されるとつらい。

 

だめなときももちろんある。

 

今成績が悪くても良いときはきっとくる。

 

 

 

自己評価が高いときもある。

 

こんなやつとぼくが一緒のレベルだと!?

ぼくはこの程度じゃない。

このくらいぼくならできる。

自信過剰というか。

 

そんなときは心のブレーキ。いかんいかん、と心を落ち着かせたほうが間違った判断をしないと思う。

 

 

何かと自分を比べがち。

優越感か、劣等感か。比べたいものを選別すれば優越感に浸れるだろう。

でも強制的に外から比べられることもたくさんある。

 

Aさんにできるのだから君もできる!

どうしてみんなできるのに君はできないんだ!?というふうに。

 

もっとらくに生きれないものか。向き不向きはみんなある。

緊張も高まっているが、ギスギスした空気が蔓延している。

 

ゆるさ、おおらかさ、寛容な心。許せる心。

 

失敗は誰でもするものだと受け入れていれば、そういう心も増えていくはずだ。

 

 

価値観は変えられるか

価値観が180度逆転すれば、足を引っ張っていたものは一気に先進的なものとして見られるようになる。

 

高知県は国からみれば補助金&借金頼みの都道府県ということでお荷物扱いされているそうだ。

 

県の平成28年度財政状況をみてもおよそ7割は依存財源というカテゴリで国庫支出金、地方交付税交付金、県債など借り物が見受けられる。

http://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/110401/files/2008123100544/file_2016420384923_1.pdf

 

 

一方で、高知県は海に面し、緑に囲まれ、自然に恵まれている豊かな都道府県といえる。ぼくはまだ足を踏み入れたことはないが。かつお食べてみたいねえ。

 

自然に恵まれている都道府県は、食料自給率が高いといえる。

食料自給率が高いということは、よそから買う必要が少なくなる。

ということは、万が一国が危機に陥ったとしても、高知の人たちはさほど困ることにはならないと考えられる。反対に都会の人は、ビルに囲まれて食料を作る能力にかけている。危機的状況では飢餓に苦しむひとが相対的に多いのではないか。

 

自前で居・食・住をまかなえる能力があることは、すばらしいことだと思う。

 

 

何でもかんでも効率だ、生産性だとわーわー言い続けていれば、この国はだめになるとぼくは思う。すでにだめになっているとさえ思う。だから”希望なき国、日本”なのだ。

実際、競争をして、対立を増やし、蹴落とし蹴落とされる社会でこの国の民は幸せになってきただろうか?

がんばって仕事をしても派遣切りされ、変動費として認識されるようになった人権。

人の生活は安定的でなければならないのに、どうして大企業のお偉いさんは他人の人生を冷酷に切り捨てられようか。彼らにとって支えであるはずの多くの中小企業、非正規雇用のひとのことなど他人事に過ぎない。大企業が発展してきた所以をたどれば、下支えとなるたくさんの中小企業でがんばっている人たちがいるからというのに。

 

今の政治は経団連と仲良しだ。

業界の団体から献金をもらっているから業界の目の色を伺うようなことしか発言できない。彼らの後ろ盾頼みだから、そっぽを向かれるのを恐れているのではないだろうか。そんな様子で信念にまっすぐだとか、志のある政治活動をしている、応援しようと思うだろうか。大きな団体からの応援ありきでいては、一体誰のための政治であろうか。大企業の偉いさんのためと言っても過言ではない。

 

切り捨てられる人が増えた。

過労で死ぬ人が増えた。

自殺や殺人のニュースは絶えない。

街中からこどもの姿が消えた。

何もかもが分断され、追い詰められている人でいっぱいだ。

 

経済評論家である内橋克人さんの言葉を借りれば、今の世界は分断・競争・対立でできている。

 

もっと豊かに、幸せな国をつくるためにはこの価値観を手放す必要があるのではないか。

 

逆転した価値観では、連帯・参加・共同。このキーワードは地方の人たちほど無意識的に染み付いているのではないか。余った野菜のおすそ分けや消防団なんかが挙げられる。

 

対立は勝ち負けだ。共同はwin-winだ。

 

このままだと、何者かに搾取され続けるだけだ。しかも気づかぬうちに。