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変拍子日記

不定期な日記

許し許される社会はきっと今より生きやすい

肯定ペンギンのあかちゃんをツイッターで見かけることが多くなった。

 

かわいい。

 

月曜日の今日なんて、”職場に着いただけで満点!”なんて言ってくれる。

 

小さなことから自分を誉めよう。

 

けなすことで得られることは多くない。

 

次はこうしようああしようって決めたら、そこでシャットアウトしよう。

 

自己評価の低さはところどころに現れる。

 

どうせ自分なんて・・・

自分だからできっこない。

自分はだめだ。

どうも比較対象がある環境にならされてしまっている。

 

営業のノルマとか。グラフで営業ごとの数字が可視化されるとつらい。

 

だめなときももちろんある。

 

今成績が悪くても良いときはきっとくる。

 

 

 

自己評価が高いときもある。

 

こんなやつとぼくが一緒のレベルだと!?

ぼくはこの程度じゃない。

このくらいぼくならできる。

自信過剰というか。

 

そんなときは心のブレーキ。いかんいかん、と心を落ち着かせたほうが間違った判断をしないと思う。

 

 

何かと自分を比べがち。

優越感か、劣等感か。比べたいものを選別すれば優越感に浸れるだろう。

でも強制的に外から比べられることもたくさんある。

 

Aさんにできるのだから君もできる!

どうしてみんなできるのに君はできないんだ!?というふうに。

 

もっとらくに生きれないものか。向き不向きはみんなある。

緊張も高まっているが、ギスギスした空気が蔓延している。

 

ゆるさ、おおらかさ、寛容な心。許せる心。

 

失敗は誰でもするものだと受け入れていれば、そういう心も増えていくはずだ。

 

 

価値観は変えられるか

価値観が180度逆転すれば、足を引っ張っていたものは一気に先進的なものとして見られるようになる。

 

高知県は国からみれば補助金&借金頼みの都道府県ということでお荷物扱いされているそうだ。

 

県の平成28年度財政状況をみてもおよそ7割は依存財源というカテゴリで国庫支出金、地方交付税交付金、県債など借り物が見受けられる。

http://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/110401/files/2008123100544/file_2016420384923_1.pdf

 

 

一方で、高知県は海に面し、緑に囲まれ、自然に恵まれている豊かな都道府県といえる。ぼくはまだ足を踏み入れたことはないが。かつお食べてみたいねえ。

 

自然に恵まれている都道府県は、食料自給率が高いといえる。

食料自給率が高いということは、よそから買う必要が少なくなる。

ということは、万が一国が危機に陥ったとしても、高知の人たちはさほど困ることにはならないと考えられる。反対に都会の人は、ビルに囲まれて食料を作る能力にかけている。危機的状況では飢餓に苦しむひとが相対的に多いのではないか。

 

自前で居・食・住をまかなえる能力があることは、すばらしいことだと思う。

 

 

何でもかんでも効率だ、生産性だとわーわー言い続けていれば、この国はだめになるとぼくは思う。すでにだめになっているとさえ思う。だから”希望なき国、日本”なのだ。

実際、競争をして、対立を増やし、蹴落とし蹴落とされる社会でこの国の民は幸せになってきただろうか?

がんばって仕事をしても派遣切りされ、変動費として認識されるようになった人権。

人の生活は安定的でなければならないのに、どうして大企業のお偉いさんは他人の人生を冷酷に切り捨てられようか。彼らにとって支えであるはずの多くの中小企業、非正規雇用のひとのことなど他人事に過ぎない。大企業が発展してきた所以をたどれば、下支えとなるたくさんの中小企業でがんばっている人たちがいるからというのに。

 

今の政治は経団連と仲良しだ。

業界の団体から献金をもらっているから業界の目の色を伺うようなことしか発言できない。彼らの後ろ盾頼みだから、そっぽを向かれるのを恐れているのではないだろうか。そんな様子で信念にまっすぐだとか、志のある政治活動をしている、応援しようと思うだろうか。大きな団体からの応援ありきでいては、一体誰のための政治であろうか。大企業の偉いさんのためと言っても過言ではない。

 

切り捨てられる人が増えた。

過労で死ぬ人が増えた。

自殺や殺人のニュースは絶えない。

街中からこどもの姿が消えた。

何もかもが分断され、追い詰められている人でいっぱいだ。

 

経済評論家である内橋克人さんの言葉を借りれば、今の世界は分断・競争・対立でできている。

 

もっと豊かに、幸せな国をつくるためにはこの価値観を手放す必要があるのではないか。

 

逆転した価値観では、連帯・参加・共同。このキーワードは地方の人たちほど無意識的に染み付いているのではないか。余った野菜のおすそ分けや消防団なんかが挙げられる。

 

対立は勝ち負けだ。共同はwin-winだ。

 

このままだと、何者かに搾取され続けるだけだ。しかも気づかぬうちに。

機会費用で葛藤する。人間だもの

3連休だ。

 

仕事に学校、通勤通学をフルタイムでしている人にとってもっとも幸福度の上がる響きのひとつだ。

 

お金を費やすことはない。部屋にいれば。

昔はそうかもしれない。でも通販、決済方法の進化は部屋にいてもお金を消費させようと虎視眈々と液晶の向こう側から待ち構えている。お金を支払う対象が増えているのも原因の一つかもしれない。

 

 

お金を対象に支払うことで得るものはたくさんある。

物だったり、体験だったり形がいろいろあるということだ。

 

 

ぼくは部屋いるということで別のコストを払っているような、そんな気がしてきた。

機会費用である。

 

部屋でネットやゲームをしていることで、外に出て得られたであろう体験する時間を失っている。

 

合理的な思考であれば選択した行動一つ一つ後から考えても納得しているかもしれない。

 

でもぼくらは後悔する生き物だ。

 

今もゆっくり休息したりお笑い見たりネットしたりする行動を選択しているのも、外出することで支払うコストに抵抗があるからと納得した上で家でまったりしている。

 

でも外に出ていればよかったなあと思うときがくるかもしれないのだ。

 

運命の人に出会う確立はゼロに近い。というかゼロだ。家にいる場合は。

 

でも外に出れば0.01%くらいは確率があがるかもしれない。

 

繁華街では人口も多いからもうちょっとあがるかもしれない。

 

でもそのわずか数%のために交通費や飲食に支払うコストは本当に今日支払うべきなのか?

 

結局葛藤し、悩み、悶え、苦しみ、忘れてまったりするのだが。

 

友人の結婚式のときにどーんとお祝いしてあげるためにお金ためているんだと。

そういう風に動機付けをしているときがある。

 

貯金は手取り額から貯金する額を最初に取り出して銀行口座に入れておく。残りの金額で一ヶ月を乗り切る。毎月いくら口座に入れるかを決めると大きな波を起こさずに毎月増えていく。

 

貯金あるから仕事をいきなり辞めても数ヶ月は生きていける。

そういうセーフティネットをつくってしまうことが、かえって仕事をやめにくくする原因になるのではなかろうか。

がけっぷちだからこそ自分で流動性が高められるということもあるかもしれない。

 

もう今の会社に入って5年目に突入しようとしている。

 

ポイントを切り換えるタイミングはあるのか。

そもそもポイントはあるのか?

なかったら作ればいい。

作れる能力があるのか?

ぼくに何ができるのか?

よそへいっても活躍できるのか?

そもそもぼくは会社で活躍しているのか?

 

叱られたくない。定時に帰りたい。休みたい。

 

労働者3大欲求だ。

 

マズロー欲求階層一つ増やして現代版作ってもいいじゃないか。

 

 

 

手放す

自転車の空気が入らなくなった。

 

自動車のバッテリーが上がってエンジンがかからなくなった。

 

まったくもってわたしの管理不足である。

 

もう別れのときが来ているのかもしれない。

でも手放すことに抵抗はなくなってきている。

 

自転車はもう何ヶ月乗っていなかっただろうか。会社に入ってから大阪には出るものの地元近くで買い物にいくこともそれほど多くなかった。近いのなら歩いていっていた。

 

自動車はメインの普通自動車のサブ的な役割を果たしていたが、週末にすら乗らなくなっていてただの塊と化していた。

 

運動不足を考えるようになって、ここ最近の週末は最寄駅から2~3駅分の距離は歩いていた。これが別れたほうがよいのではないかと拍車をかける。

 

わたしには自動車は早すぎたのかもしれない。

営業で散々平日乗っているのに、どうして休みの日まで乗らなければならない?

一体誰とドライブするというのだ。。

 

自転車も運動にはなる。しかし尻が痛くなる。

電車にずっと乗っているかのごとく、サドルにずっと座ってペダルを漕ぐというのは存外痛みを伴うものだ。

 

ひとりにつき1台車を運転している昨今、環境問題に関心が高まってきた。

ヨアン・ノルゴーさんのエネルギーと私たちの社会を読んでなお一層。

市場原理主義というか、THE・資本主義の体裁をとっているアメリカに追従していてはたしていいのだろうか。

 

お金がすべてか?

貯蓄から投資か?

価値あるものをお金に換えて本当にいいのだろうか?

鑑定団に価値を決めてもらうのは本当にいいことなのだろうか?

 

北欧社会が目指しているベクトルにこの国は合わせるべきだ。

アメリカにとって駒になっている気がしてならない。

属国という感覚はないが、戦後よりアメリカにヘコヘコしていた感じはトランプ大統領と安倍首相のにこやかな様子を見ているとどうも違和感を覚える。

相手は何枚も上手のような、巧みに日本を自国の利益につながるように動かそうとしている。そんな予感。

日米同盟が対等な関係にないように、何か人質にされている気がする。農業から経済から何まで。

 

だからといって今わたしが憂慮するだけでこれからいったいどうすればいいのだろうという行動へ落とし込むことができるのだろうか。

食料をほかの国からの輸入に頼っている状況はいけない。これは間違いない。

地方は、耕作放棄地がたくさんあってズタズタの状態になっているところが多い。

都会に出て労働者となった人たちは搾取され精神から締め上げられていることがたくさん見受けられるようになった。。

高坂勝さんや正木高志さんの本を読んでいれば、地方へ目を向けている人が増えているのも事実。一方でブランドものや年収に拘って都会で生きている人もいる。どういう嗜好が自分に合って、ライフスタイルを築くかは人それぞれだ。

 

 

なにか小さな一歩といえば、ガーデニングやベランダ栽培だろう。

農作物をたくさんでなくていい。自分で食べれるものを栽培することだ。

プチトマトでもなんでもいい。半農半Xになることだ。

 

このままでは、このままである。

 

幸せだったかと聞かれて、幸せだったよと答えられる人生。

わたしひとりの力は微粒子レベルのものではあるが、そう思わせてくれる社会、世界に少しでも近づけて生きたい。

 

がんばらないことが奨励される世界へ、国へ

もう、がんばるのをやめよう。

 

すべての民に告ぐ。

 

 

かつて石油などの有限エネルギー依存だったデンマークを、自然エネルギーへ注力できる状態に寄与したひとりであるヨアン・ノルゴー氏の本を読み始めた。

 

彼はどうすれば日本は経済成長できるかという問いかけに対して、もうそろそろがんばるのをやめたら、日本はもっと幸せになれますよ!とユーモラスに返した。

 

 

 

入社して3年くらいまでは20時21時まで会社にいるのはザラだった。

おとんに心配かけてた。遅くまで何やっとるんや?と。

残業代もボーナスもろくに出ない、出さないような企業で働いて。

 

今はもう”やってられるか!”と半分放棄で逃げるように退社するようになった。

18時台の退社が増えるようになり、最近早いなと会社の人やおとんに言われるなった。

 

また、これは明日やればいいやという考え方を最近になってようやくできるようになった。

 

新人は入社直後のハネムーン期間が終われば上司・先輩の視線が気になり、帰り辛くなってしまものだ。ぼくの場合はそうだった。

 

 

仕事は基本区切りがないのだ。千眼美子さんのようパッとある日すべての仕事を鎮圧することなど普通はできない。何かが常に同時進行している。終わればまた新しい見積もりやら注文、クレームが入ってくる。それだけ得意先が多いというのが一因かもしれん。

 

だからナリワイのように細かく刻んだ関係をたくさんの人が持てば通常運転時もちょっと量が増えてきたなって時も負担に感じにくくなるのだと思う。

 

”捌けなくなったからここへ聞いてみて!”という一見お断りしたと受け止められるけど、新しい繋がりを同時に生むことができれば、win-winにならないだろうか。

 

紹介した人も気持ちいいし、依頼者は紹介されたところで問題解決すればいいし、依頼されたところは新しい仕事が入ってきたことになる。

 

3方よしではなかろうか。

 

得意先の持ちすぎは幸福度を上げない

 

こういうところにたどりついた。

 

 

ひとり占めは全体のプラスになりにくくそこで働く人も大量の仕事に消耗してしまう。

一件ごとにしっかりとした売り上げ基盤があれば・・・。

 

 

残念ながらそうはいかず、毎月売り上げに波があって、もっと売り上げを安定・増加させるために新規開拓だの掘り起こしだのを上から言われるのだ。

 

 

みんながんばっている

日本の民はこのみんなという言葉に敏感だ。

みんなやっているからあなたもやりませんかと謳い文句によく聞く。

 

みんなって誰だ?

 

ライバル会社に奪われるから?

給料が払えなくなるから?

上司が残業しているから?

 

ぼくもがんばれってか?

 

 

そこまでする必要があるほどの給料をはたしてもらっているだろうか??

 

”そこまでするほどの給料を、おれはもらっていない”

今は心の中でしか発せないが、早く帰りたい一心で仕事する。

 

明日でいいことと自分の中で仕分けして、事務机に佇むノートパソコンをシャットダウンしよう。

時間的、精神的なプレミアムをつくろう

国内にてプレミアムフライデーを生き延びた。

 

労働者で15時に退社し、プレミアムなフライデーを過ごせた人はいったいどのくらいいただろうか。

 

ドミノ・ピザツイッター投票だと88%がぜんぜんプレミアムじゃないとの結果だ。

 

 

一部の大企業だけが適用できるルールのようにぼくは思った。

大企業向けに作ったものだということ。

癒着感が高まってくる。安部政治は経済会と仲良しだから。

 

中小零細には無理だ。

このような角度からも切り捨てられるのだ。

 

仕入れ先も得意先も何事もなくみんな働いていた。

 

ぼくは15時を過ぎたころ、帰ってゴロゴロしたいという幻想を抱きながら目の前の作業および仕事に取り掛かっていた。

 

”賃上げがここ数年で実施されてきているけど消費が伸びないから早く帰らせて金を使わせよう”

 

本当に効果があったかどうか、来月再来月も実施してみて人々の行動が変わったか検証されるだろう。

 

そもそもぼくは人々が消費することに疲れ果てて早く退社しようが金を使わないんじゃないかと思っている。ぼく自身もこの制度の早く退社させるという部分は大賛成だ。たくん好きなことに時間を割き、寝て精神を回復し、明日への活力とすることができる。

 

 

個人消費を無理にやる必要はない。

必要以上のものを無理に買う必要はない。

電車の広告に駆り立てられる必要はない。

 

何を買おうか、食べようか、昼飯のチョイスすら頭を無駄に回転させなければならないのだ。

コンビニの商品点数の多さは疲労を知らず知らずのうちに与えている。

 

 

○○離れというフレーズはひとつの答えなのだ。

自前のものをみんなが持つ必要性はなくなっている。

趣味やこだわりのあるものだけでいい。

 

お前ら消費しろ、とヒトであるぼくらは消費者にさせられている。政治に。

金もっている政治家が消費しろ。とぼくは思う。

持たざるるものからさらに金を奪うことはあってはならない。

 

持つものが持たざるものへ行き渡らせる。正しいトリクルダウンが実際には行われていないんじゃないか。逆の流れが、貧乏人から吸い上げて富裕層が肥えていくことが増えているんじゃないか。

 

 

そんな気がする

 

今日も生き延びよう